秋田県潟上市にある「ファームガーデンたそがれ」。
ここには、いきものが集う、耕さない田んぼがあります。
ホタルにトンボ、カルガモや白鳥。
ファームガーデンたそがれの田んぼに集う、なかまたち。
「田んぼ」「米づくり」
そんな言葉を聞くと、大きな機械が田んぼを走る、そんな光景を思い浮かべる方も少なくはないでしょう。
ファームガーデンたそがれの田んぼは一味違う。お米の味だって、一味違う。
その理由は、耕さない田んぼ、不耕起自然栽培にあります。
農薬や化学肥料、化石燃料に頼らないお米づくり。
可能な限りの行程が手作業で行われ、除草剤にも殺虫剤にも頼らないそれは
想像を絶する手間暇がかかるといいます。
しかし、そのように自然と真正面から向き合うことで、
この田んぼは「いのち」を感じることができる場にもなっているようです。
いろんないきものが田んぼで生きる様子。自分も自然の一部なのだという実感。
これが、たそがれの田んぼの美しくどこか懐かしい風景を生んでいるのかもしれません。
自らの手で土に触れ、食べものをつくる。
同じ地球に生きるいきものたちの声に耳を傾け、あるがままの自然を知る。
当たり前のようで、忘れてしまっていることに気づかせてくれる、それが
「ファームガーデンたそがれ」の田んぼの風景です。
その風景のデザイナーである、園主の菊地晃生さんによる
心の琴線、生命の琴線に触れる美しい言葉をまとめました。
“まどろんでゆく 稲色のうつりかわりに
褪せるにしたがい 鮮やかさを増す 干し草香に
わたしは 生の実感を確かに感じているのである。
稲が教えてくれるコト 生存実感。
わたしたちのからだはこの地球無しでは存在し得ない。
たんぼが教えてくれるコト。
生きる様への道しるべ。”
(元記事: 2015.10.14)
“みんな、社会の歯車として自分を機能させて頑張ってる。
はっきりいって、俺は企業で働ける人間ではないので、
その暮らしに立ち向かう人々を戦士だと思う。思える。ソーシャル ウォリア
俺の代わりに、家族の代わりに身代わりとなって、
一番つらい仕事を引き受けてくれているのだと思う。
では、俺のしごとは、なんだ。
その社会の歯車を回す人々の腹を満たすことじゃないか。
心を満たす事じゃないか。
腹が減っては戦はできぬ。
精神のインフラとして、これから働き抜こうと決意した。”
(元記事: 2015.12.24)
生まれ変わっても農業をしたい。
(元記事:2016.02.01)
自然と向き合い、そのありのままを受け入れ、ありのままで臨む。
菊地晃生さんのそんな姿勢は、生命、食、農、の素晴らしさを私たちに教えてくれます。
NIPPON TABERU TIMESに寄せていただいた論説、「原体験としての食の再考」では
菊地晃生さんの考える「今と未来」がつづられています。
「どれだけ多様な生命をたんぼに招待できたのか」を新しい価値基準としてこれからのたんぼの行く末を眺めてみたいと思う。都市に住む人も田舎に住む者も、共にイメージを共有できるような未来の田んぼスケープを描いてみる必要が、そこにある。
日々の暮らしの中に、何故私たちが食べているのか、何を食べているのか、どうして食べているのかを取り戻し、暮らしに農を取り入れることで、自我と他者である「自然」とを二分する思考の原理を振り子の原理で呼びさましたい。「我想う故に我在り」から「君想う故に我在り」への転換。
<<耕さない田んぼのお米を食べてみたい!>>そんな方にはこちら!
ファームガーデンたそがれでは、お米の他にも、木苺ジャム、ピクルス、麹などなど
季節を感じられる食べものがたくさんあります。
冬が終わると、春がやってきます。いきものたちの声が聞こえると、今年のお米づくりもはじまりの季節。
今年はどんないきものが、どんな人たちが集まるのでしょうか。どんな田んぼスケープが描き出されるのでしょうか。