田んぼがブルーベリー畑になった村 〜能登ブルーベリーのはじまり〜

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農家 石川県鳳珠郡能登町

田んぼをブルーベリー畑へ

周囲を日本海に囲まれた能登半島で唯一海が無い「旧柳田村」で初めてブルーベリーの木が植えられたのは、昭和58年、今から33年前のことです。当時の「柳田村」はほとんどの人が兼業農家で水稲栽培が主な作物でした。しかしながら、日本全国で米の消費量が減少し、減反政策がすすめられており、「柳田村」でも水稲から他の作物への転換が課題となっていました。

水稲の替わりに何を植えようか。大豆や小豆では収入が少ないことはすでに経験済み。
米に替わる村の特産品になるものは何がいいだろうか。そんなある日突然、その当時の柳田村農協(今はJAです)の組合長だった駒寄孝造、実は我が家の父が「ブルーベリーを植えるぞ。」と言い出しました。

 

発起人たちの試行錯誤

父、駒寄孝造は大正8年生まれでしたが、ともかく好奇心旺盛で新しいもの、めずらしいものが大好き。戦前に若くして自動車の運転免許を取得し、その後建設会社を企業しましたが、建設現場で使用する機械をより便利に改造するなど常に新しい情報を取り入れ、豊かな発想でいろいろな工夫をする人でした。

駒寄孝造とブルーベリーとの出会いは諸説があり、正確なところが分かっていません。
筑波大学の先生からアドバイスをいただいていたことは確かで、柳田村へも何回も足を運んでいただきました。その頃ブルーベリーといえば、ガムがあったくらいで一般には認知度はまだまだ低く、ブルーベリーの木がどんな大きさでどのように果実が実るのか全く知りませんでした。たぶん、村の人は誰も見たことが無かったと思います。家族としては「また、新しいことが始まったぞ!」という不安はありましたが、それまでもイチゴの水耕栽培などいろいろな作物を試験栽培していましたので、そんな中のひとつというとらえ方でした。

駒寄孝造は残念ながら、平成3年に亡くなりました。ブルーベリーの実がようやく実り始めた時でした。ブルーベリーをなんとか根付かせようと、筑波大学へ行ったり、九州のワイン会社へ行ったりと多忙な日々でしたが、充実していたことと思います。


ブルーベリーの強さに助けられて

一番初めの木は筑波大学から分けていただいたと記憶しています。家業の柳田建設のユニック車で運ばれてきて我が家の近くの畑に植えられました。ここはとりあえずの仮の住まいです。その後、山を切り開き、現在の駒寄農場がある山のふもとのブルーベリー園に580本の木が植えられました。この時に植えられた木は今も80本くらいが元気に残っています。

現在残っている木のほとんどはラビット系の品種です。駒寄農場のブルーベリー園の中でもひときわ大きくて枝を広げているティフブルーという品種の木は33年前に植えられたものでシンボルツリーとなっています。幹の太さは直径が20センチくらいになりました。毎年たくさんの新しい枝を伸ばし、冬と春2回の剪定作業をおこないますが、それでも夏にはあふれんばかりの実を付けます。
なんて力強い生命力だろうと思います。

33年前の栽培技術では現在のように木材チップやピートモスは全く使わずに粘土質の土にそのまま植えてあります。水はけの良い土質を好むブルーベリーとしては、栽培適地ではなかったため枯れてしまった木もありましたが、この能登の粘土質の土に適応して根付いた木が柳田村でブルーベリー栽培が広がる原点となりました。

(2017. 1. 24)


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